写真集

藤原敦

小林信子

唐仁原信一郎

中藤毅彦

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[写 真]
藤原 敦「詩人の島」
小林信子「隣の暮らし in China」
唐仁原信一郎「熱海」
中藤毅彦「サハリン」
[編 集] 長谷川 明
[発行者] アスファルト出版
[発行所] フジフィールド株式会社
[翻 訳] Miles Yebisu
[印 刷] 株式会社レーエ

【序文】

今号のゲストの小林信子氏は1969年東京生まれ。文化学院の英米文学科を卒業し、1998年から7年間イギリスでデザインと写真を学んだという異色の経歴を持つ。 中国に行った事情は本人の文章にあるが、時は2006年から8年にかけてである。胡同(フートン)とは北京の下町のような庶民の住居のことだが現代中国語では小巷と記され、日本語訳では横丁、裏通りなどとなる。

明代には??と書かれていたが、清のときに簡略化された。四合院は元来は上層階級の大家族の住居だったが、辛亥革命後彼らが没落してからは、次第に庶民の雑居住宅となった。 80余箇所あった胡同は前世紀の末頃から再開発で取り壊され、現在では保存地区に指定された20余りが残っているだけだが、観光名所にもなってはいる。

小林氏は知っている日本の写真家としては木村伊兵衛の名をあげただけだったが、氏の写真も実は同タイプなのである。やはり同類はわかるということであろう。

藤原敦氏の「詩人の島」は岡山県長島に設けられたハンセン病の隔離病棟「愛生園」の現在を撮影した写真である。人物は写っていないが、島には今でも医者、事務員、行き場のない元患者がいる。 「癩予防法」は昭和6年から実施され、患者は強制収容された。この病気はその症状から昔は天刑病とも呼ばれ甚だ忌まれた。実際は、伝染力も弱く、遺伝子病でもない。

しかし、かつては治療法がなかったことと、ヨーロッパが中世から徹底した隔離政策とったことに倣って行われた。やるべき根拠のない断種も強制された。 戦後はプロミンやスルフォン剤系の治療薬が生まれ、完治することが可能になり、欧米では1950年代に隔離制度を廃止したが、日本では実に1996年までこれを続けた。

1998年に元患者たちが「強制隔離は違法」という裁判を起こし、地裁はそれを認めた。だが、役人は自分の金で裁判をやっているわけではないから何事でも延々控訴して最高裁まで持っていく。 その間に老齢化した元患者たちは死んでいく。上告を止めさせたのは時の総理小泉純一郎である。これは小泉の数少ない功績のひとつであろう。

藤原氏の写真に大きなスピーカーがあるが、この病気は進行すると失明する場合が多いので、収容者を誘導するために島のいたるところに設けられているという。 ハンセン病患者には俳句や短歌を作る人が多かった。氏の引用している明石海人もその一人だった。彼は発表した短歌が釈迢空に高く評価されその名を残した。 そこで私は朝鮮人の患者だった金夏日の歌を引用してみよう。

「ライ園のわれも僅かの献金をしぬ動乱祖国の難民のため」 これは朝鮮戦争勃発のときの作である。彼は東京多摩の全生園に居た。

唐仁原信一郎氏の写真は今回は「熱海」である。熱海は東京に近い観光地として私の父母の世代なら新婚旅行の地でもあったが、新幹線と飛行機の時代になると近すぎるのが逆に災いして一時凋落した。 とはいえ温暖な保養地であることには変わりはないから、近年はイメージを変えて復興しつつあるようだ。私は長く行っていないから氏の写真が新鮮に見えた。

中藤毅彦氏は1970年東京生まれ。早稲田大学を経て東京写真専門学校に学んだ。サハリンには2008年11月に訪れたという。 掲載作は未発表だが、すでに写真展が行われ、雑誌にも「サハリン」のタイトルで発表されているからご存知の方も多いだろう。写真の男性はニブヒ族(旧称ギリヤーク族)である。

ノグリキという都市の郊外には彼らだけの部落があるらしい。ニブヒもアイヌも国家を形成しなかったため、近代国家の時代になると、国内の異分子として差別の対象にされた。 南樺太に居た日本籍のニブヒとアイヌは戦後スターリンによって北海道に追放されたが、その後のことはよくわからない。サハリンは簡単に行ける所ではないから、中藤氏の写真は貴重なものと言ってよい。 写真集にまとめられることを希望している。

長谷川明

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