写真集

[indigo] 水谷幹治写真集

[イカロスの墜落のない風景]
長谷川明

水谷幹治の「風景」を語る。
映像を言語化することの無意味さに悩まされたのは私が写真に関わった最初の頃からだった。カメラ雑誌の展評をしばらく連載した後、『写真を見る眼−戦後日本の写真表現』(青弓社1985年)という写真評論の本を発表してはいるが、正直な話、これは果たして評論と呼べるのだろうかという疑問を常に抱き続けていた。

何か目的があって撮影されている写真なら合目的であるかどうかで判断するから評価は容易である。 ピントが合っていない、被写体がふさわしくない、意図が伝わらないなどと言っておればよい。そうではない「作家の作品」となると見る側の主観が甚だしく入ってくるから客観的評価などまず成り立たない。つまり映像を語ろうとすると、その周辺についての「解説・説明」になるか、作者についての「評判記」になってしまいがちなのである。

これは写真というメディアが本来目で確認できる説明として出現し、発達した歴史を考えれば当然のことなのだが、近現代に至って、その中から、あくまで作家性を主張し事物・事件の従者であることを拒否する写真家も出現してきた。戦後の日本で言えば、森山大道がその典型と言えるが、彼の写真を論じようとすれば、それは主観と主観のぶつかり合いとなり、結局論じる人が自己を語るという結果にしかならないのである。

私が写真評論をやめ、写真集の編集を専らにした理由は主としてそこにあった。編集行為というのは実は最も高度な批評行為であるが、それは言語化することは難しい。尊大に言えば阿吽の呼吸ということになる。 どういうことか説明するのに、少し大げさだが、昔の人の話をしよう。岡倉天心は明治維新後の日本の美術改革を委任されたが、その一環として世界の美術事情の調査旅行をしている。

そのとき彼は中国山西省の雲崗石窟を訪れている。ここは現在では世界遺産のひとつになっているが、当時は知る人は少数だった。天心はそれを見て、様式から北魏のものと断じ、中国の石窟の中ではここが最も優れていると言った。石窟寺院は外にもたくさんある。そこしか見ないで言ったのだからいい度胸だが、これは現在の評価と一致する。さらにその後、天心はインドのエローラ石窟を訪れたが、一游して第25窟カイラーサナータに古典ヒンドゥー彫刻の真髄があると言った。

これもそこしか見ていないで言っているのだからいい度胸だが、今日では定説となっている。天心の場合幼時からよいものを見てきたという素地があったのだろうが、この勘は天性のものであり、横山大観が最後まで彼を師と仰いだのはそれを信用していたからであろう。ところが、では天心の美術論はどうかというと、これはどうも首をひねらざるをえない。 『茶の本』など英文で読んだ方がわかりやすいかもしれない。要するに一目見てわかることの説明などできないのである。いいものはいいだけである。一目見てわからない人は一生見てもわからない。

写真評論は難しいということを言おうとして話が隘路に入ってしまったが、さて水谷幹治氏の写真である。水谷氏の写真集『indigo』(蒼穹舎)は2004年に刊行されており、私はそれを見ながらこの原稿を書いている。そして、そこには入澤美時氏の『「新しい風景」の出現』という長文の跋文が掲載されている。風景論から水谷写真を論じた力作で、写真の性質上そこから話を始めなければならないこともよく理解できる。

そこで私も私なりの「風景論」を語って評論に代えることにする。屋上屋を架すの愚にならなければ幸いである。 風景というものが意識され始めたのはいつの頃からであろうか。ものを描くという行為は、原初は何かの記録・伝達という目的から始まったのであろう。風景もそのひとつであったはずだ。写真発達以前の考古学者は必ず絵画を学んだ。

遺構をスケッチするためである。スウェイン・ヘディンら19世紀の考古学者のスケッチは多数遺されており、中には並みのシルクロード画家のものよりも味わいのあるものもあるが、それは今日の目で見るからであって描いた人間の意図とは関係はない。美術における風景画の成立も議論の分かれるところであって、レオナルドの「モナリザ」の背景が意識的風景の端緒ではないかと記している人もいる。中世にも故郷の風景などを描いた絵は存在するから風景画がなかったわけではないが、やはりある目的があってのことだろう。

西洋画の歴史を見るに、バルビゾン派に至って風景が慎重に扱われるようになったことは否めないものの、これは「落穂拾い」の図のように、ある理念を語るための風景である。風景が純粋に風景として描かれるようになったのは、やはり印象派以降のことと思う。翻って東洋画を見るに、山水図はすでに唐代に出現している。また水墨画の発展とともに怪石奇景の図は禅宗とともに日本に伝えられ、多数描かれた。

しかし、その多くは風水説のような占術や理想の隠遁生活の図示であり、風景画とは言えない。日本人の描いた、見たはずのない西湖の図など想像図としか呼べまい。 では日本でいわゆる風景画が数多く生産され、多くの人々に親しまれるようになったのはいつかというと、江戸時代後期、つまり浮世絵の隆盛からと言ってまちがいではない。

歌川広重「東海道五拾三次」が保永堂から刊行され始めたのは1833年のこと。英泉との合作「木曾街道六拾九次」は1838年頃から制作が始まっている。二人のような有名浮世絵師でなくとも地方の名所図会は数多く出版され人気を博している。その理由は矛盾するようだが、江戸の後期になると交通形態が発達し、規制も緩和され移動が容易になったことと、にもかかわらず普通の人々にとっては遊山の旅はやはり憧れでしかなかったことである。

幕末の志士清河八郎の『西遊草』は母を連れての遊山旅日記だが、これを読むとどうも手形を持っていないようだ。女連れだから関川の関などは避けているものの、別の道を通ればよいだけのことで、この時代、行商人、絵師などの旅もほとんど自由にできたようである。しかし、江戸で商いをしている人間はそうはいかない。基本的に盆と正月しか休暇のない時代である。彼らの旅への憧れを満たすものとして名所浮世絵や道中記が量産されたのである。

問題はこれらの「名作」を風景と呼んでいいのだろうかということである。浮世絵研究家の堀晃明氏は「木曾街道六拾九次」(人文社2001)の解説の中で「英泉の絵は街道筋の名所、旧跡を取り上げているのに対し、広重の絵はそうしたものをなるべく排除している」「英泉はその土地の特徴的な物象を集めてきて絵にしているが、その配列は必ずしも実景とは合致していない」と書いている。要するに写実よりも理想の風景(絵を買った人が見たいと思うような)を再構築しているのである。

しかし、風景及び風景画に対する認識は明治維新後もこのまま続いていた。それを一変させることになったのが志賀重昂の『日本風景論』であった。 ここでようやく入澤氏の論稿の書き出しに追いついたわけだが、細部はそちらを参照していただくことにして、手短かな所感だけを述べる。1894年(明治27)に刊行されたこの書物は、日本の風土の特色を説明し、合わせて旅行術(登山術)を解説したもので、その種の本のはしりではあったものの、それが大勢の人に受け入れられ、文字通りベストセラーとなったのには別の理由、あるいは時代的背景があったようである。

それは日清戦争の勝利によるナショナリズムの急激な高揚と言ってよい。つまり日本人が初めて日本の自然を意識し始めた、あるいは客体として見るようになったということだ。その結果入澤氏の語るように、山は山として発見され名称がつけられるようになった。山登りは山岳信仰からスポーツ登山に変わり、自然は鑑賞するものから探索研究するものになった。折から流入してきたリアリズム、科学的精神、進化論のごった煮的受容と近代国家という自覚から生じたナショナリズムが結びついたことが、志賀の書を歴史的一冊にしたと言えるだろう。

この本についての言及は多く、現代でも加藤典洋氏は同題の『日本風景論』(講談社1990)の中で、志賀だけでなく国木田独歩の「武蔵野」についてもふれ、「旅行者的審美の態度─探勝的景観」「定住者的審美の態度─生活的景観ふるさと」という分類に「ただの風景」という概念を対峙させているのが注目される。

ここから水谷写真論に入る。この文章の表題「イカロスの墜落のない風景」とは、もちろんベルギー美術館の所蔵するピーテル・ブリューゲル(伝)の「イカロスの墜落(のある風景)」を意識している。この絵の特異さは、日常的な農村風景の中に突然ギリシア神話の登場人物であるイカロスが現れ、海に墜落しているという設定にある。そして事件にもかかわらず農夫はただ耕作を続け、釣りをする人は眼前の出来事にも関心を示さず釣り糸をたれている。

もし海から足を突き出しているイカロスを手で隠してみれば、これはただののどかな午後の風景となる。それが「ただの風景」である。風景写真という言葉は存在する。その道の大家として緑川洋一の名前をあげてもよいだろう。またネイチャーフォトという言葉も存在する。これも志す人は多く、どうやって撮ったのかと思わせるような自然の写真が数多くある。水中写真の中村征夫、山岳写真の林明輝などだ。写真家を体力仕事として考えたら、これぐらい努力している人たちはいないだろう。

しかし、それはやはり「探勝的景観」に属するものである。何十冊もの写真集を造ってきた人間として言うと、売れる写真集というのは撮影対象によって売れるのである。SL、猫、有名女優なんでもそうだ。篠山紀信撮影の坂東玉三郎の写真集が売れるのは、篠山の卓抜な技術は認めるにしても、玉三郎の写真だから売れるのであって、篠山の写真だから売れるわけではない。

やはりここでも写真家は事物の従者でしかない。 しかし、写真家の中にも写真を全面的に「私有化」しようとする人間もいる。森山大道はこう言う。 「僕は以前、写真は記録というよりむしろ記憶だと言っていた時期があったので、それはいまもそうなのですが、そのあたりのことも含めて、僕にとって記憶とは何か原景とは何かということを話そうと思います。(中略)それから、場所ということで言っても、僕が遠野をはじめいろんな場所に出かけるとき、これもほとんど無意識のうちに、僕の中に残像している少年のころに見た風景に近づこうとしてしまうのですね。(中略)それはちょっとオーバーに言えば、個人のなかにおける一種日常の輪廻と言ってもいいと思うのです。よく僕が、擦過と言い一期一会と言い人間の存在の無残さを言うのは、この輪廻なり原景回帰からくるパラドックスなんです」(『遠野物語』朝日ソノラマ1976)。

ここには世界をすべて自分の「原景」の中に閉じ込めてしまおうとする孤絶したあるいは傲慢な精神がある。森山の独創性は写真を完全に私有化することによって逆に作家性を消滅させようとしたことにある。彼がかつて「写真よさようなら」と宣言したのはこのことにおいてである。要するに彼は「ただの風景」を撮りたいためだけに旅をする写真家なのだ。

この精神は森山の後輩とも言える何人かの写真家たちにも受け継がれているように思う。尾仲浩二がそうであり、何よりここで取り上げた水谷幹治がそうである。この行為は森山も言うように本来「叙事」である。しかし、それを見るものにとってはある「叙情」と受け取られる。

こういう写真に苛立つ人は何のために何を撮っているかわからんという目的性のなさに苛立っているのではなく、あまりもの主観の過剰に苛立っているのである。だが、写真に限らずあらゆる表現行為において叙事がそのまま叙情と化すことは最も幸福な状態とも言えるのである。 冗長な文章になってしまったが、写真を論じることがいかに「徒労」であるか、いささかでも理解して頂ければよしとしよう。

2007年10月29日

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